今から千百有余年の昔、遠く都から太宰府の地へやってきた1人の少女がいた。母親を亡くしたばかりの幼い弟”隈麿”の手を引き、懸命に父”道真”の後を追う姉、名を”紅姫”という。なに一つ不自由のない都での暮らしから一転して、太宰府での生活は困窮を極めた。辛い日々の中で紅姫は何を見、何を考えたのか。
「慰少男女詩」
衆姉惣家留
諸兄多謫去
少男与少女
相随得相語
昼餐常在前
夜宿亦同処
臨暗有燈燭
当寒有綿絮
(以下略)
「姉たちは家に留め置かれ、兄たちは遠方へと追いやられた。幼い姉弟だけが常に一緒にいて、いつでも語りあうことができる。食事の時はいつも目の前にいて、夜は同じ部屋で寝る。暗くなれば灯りがあり、寒い時は暖かい着物がある」
時の左大臣、藤原時平の讒言によって貶められ、何もかも奪われた父道真にとって、明るさを忘れない子供達の姿が唯一の支えだった。しかし、弟の隈麿は翌年に病で命を落とし、さらにその翌年には、持病を抱えていた道真自らも後を追った。
父の庇護を失い、たった一人残された紅姫。彼女のその後を明確にする記録はない。一説によれば、父道真公から託された密書を携え、四国へと流された長兄高視卿の許へと出立したとされる。しかし、藤原氏に嫌疑の目を向けられ、追っ手から逃れるために若杉山の麓で隠遁することを余儀なくされた。探索の手は熾烈を極め、いつしか見つけ出された紅姫は、篠栗の地で刺客の凶刃に倒れたという。
▲篠栗町の紅姫稲荷神社。非業の死を憐れんだ地元の民の手により、稲荷神として祀られたという縁起が残されている。
筑紫野市二日市京町、菅原道真公の終の住処となった榎社から歩いて10分ほど、住宅地を分け入ったところに寂れた児童公園がある。かつては子供たちで賑わっていたことがあるのだろうか。見る影もなく荒れ果て、雑草に覆われた敷地の片隅に、道真公の娘である紅姫の供養塔が建てられている。
もとは別の場所にあったこの供養塔は、マンション建設に伴い、車両通行の妨げとなるため現在の場所へ移された。そこに、亡き弟と同じ年頃の子供達に囲まれることで、せめて寂しい思いをさせまいという意図があったかどうか。
▲表面には五輪(土:ア・水:バ・火:ラ・風:カ・空:キャ)を示すサンスクリット語が彫られているそうだが、風化していて読み取ることができない。周りは綺麗に手入れされている。お参りしてくれる人がいるのが救いだ。
菅原道真公の伝説と、その陰に幼い少女がいたことを次の世代へと伝えたい。いつかまた、この忘れ去られた公園に、子供たちの笑い声が戻って来ますように。
▼紅姫供養塔(筑紫野市)
福岡県筑紫野市二日市北2-19 児童公園内(地図を表示する)
▼紅姫稲荷神社
福岡県糟屋郡篠栗町篠栗4663(地図を表示する)
▲紅姫供養塔(太宰府市)
福岡県太宰府市朱雀6-18-1 榎社(地図を表示する)
もう一つの紅姫供養塔は、現在は太宰府天満宮の飛び地であり、かつて菅原道真公の住まいであった榎社の敷地内にある。道真一家を日夜世話したという浄妙尼(もろ尼御前)を祀った祠のかたわらに佇む。
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